御朱印集め お寺巡りが大好きなのです the truth of SATORI

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大阪天王寺の御朱印

さて,仏教といえば「悟り」ですが,この「悟り」とはそもそもなんなのでしょうか

「悟り」とは何かを説明するのは,「痛い」とは何かを説明するのと同様に難しいのです

というか,説明できないのですね

例えば,ここに「痛い」とはどういうことか分からない人がいたとして,その人に「痛い」を分からせるには,説明による理解ではなく感じさせるしかない

感じた時に「そう!それだよ!それが『痛い』だ!」ってやるしかない

これを「説明」するとなれば,「『痛い』とは,身体上に存在する痛覚が刺激を感じたときに,その電気信号が神経を通って脳に伝達されて…云々」とやるしかない

でもそれじゃ「『痛い』ってどういうこと?」に対する回答になってないでしょ?

そのために「感じさせる」しかないから,その方法としては「感じるためにはどうしたらいいか」という話になっちゃいます

それはたとえば,「目を瞑って道を歩いてみろ」となるかもしれない

これによって障害物に衝突したり,石に躓いて転んだりして,「あ!これが『痛い』か!」となるかもしれない

もちろん,そんなに都合よくならないかもしれない 修行を始めてすぐに悟りに到達する人もいれば,一生かかっても悟りを得られない人もいるのはこのため

あるいは「街中で,柄の悪そうなチンピラに暴言を吐け」と方法を解くかもしれない

そうすれば,怒った相手から一発ボカンと殴られて「あ!これが『痛い』か!」となるかもしれない(ならないかもしれない)

宗派の違いもそんなものなのです

「目を瞑って歩く」と「チンピラに喧嘩を売る」では「全然違うじゃねーか!」「どっちが正しい道なんだ!」ってなるけど,実は到達すべき悟りは同じ

南無阿弥陀仏とひたすら念じるのも,よくわからん禅問答を真剣に考えるのも,だたひたすら座禅するのも,道が違うだけでたどり着きたい場所は同じ

修行の方法はまったく異なっており,それがまったく同じ真理に到達する方途であるという一見無茶な状況

それこそが仏教の真実ではないかと思うのです

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